落ち着く海、落ち着かない海
家以外で好きな場所って
超が付くほどインドアの僕は、この世のどこよりも家が好きな自信がある。
この世に限らずとも、見たことはないが天国より好きな可能性だってある。
人目を気にせず、気を使わず、他人の言動や常識の違いに腹を立てることもない。
自分の落ち着く位置に家具や物を配置して、自分の納得のいく綺麗さを保つ。
それが自分の家や部屋が快適であるがゆえんだ。
その点、家の外へ一歩出ると、そこは男性か女性かもわからないどこかのデザイナーや建築家、時に神が七日で”万人に向けて”作った世界だ。
万人に向けた世界が自分でつくった世界以上に快適であるはずがない、というのが僕の考えだ。
それなのに、僕たちは自分の世界よりも外界での生活に時間を割く。
ストレスとは、僕の場合、家にいたら感じ得ないものごとから生まれる。
他人の言動、匂い、音、色、などなど。
学校なんかは、いまあげたそれらだけで作られているといっても過言ではないわけで、そこに絆とか友情とか仲間とか言うようなクラスメートがでてくると、増して環境は悪くなる。
テスト中の静寂と、自分の世界を無理やりつくって没入している時間は好きだった。
なにも自分の世界は、環境だけで作られるわけでなくて、意識を集中すれば作り上げることが出来る。
青春とわるふざけの境界線の見えないクラスメートが騒ぐ授業中にノートに絵を描く、この世の全人類が国語の授業よりもそれを中止してカルタをすることを望むと思っているクラスメートを無視して本を読む。
腹の立ったことをノートに書きなぐり、それに対する解決策や不満をあげていく。
教科書の絵や思いついたことを深くひろく掘り下げて物語とか対比とかを考える。
単純作業に没頭したり、強い感情に意識をすべて預けたりすると、喧噪もにおいも気にせずに済む。
自分の部屋にいるときに、安心する空間が自分を取り囲んでいるのに対して、授業中のそれは、自分の中に安心できる空間を作り出してそこに入っていく感覚だ。
だらだら、ながいこと書いてきたが、今日はいい場所を見つけた。
オーストラリアにあるユランガ。
長い橋が浜から沖へと伸ばされて、たどった先には干潮時には歩けるマングローブ林や砂浜。
ごつごつした岩の多い川岸と開けた視界の絶景。
長い橋のおかげか、日本人のいない環境のおかげか、ここでは人目があまり気にならない。
潮のにおいはつよくないし(そもそも潮のにおいは嫌いではないが)、聞こえるのは風が耳にぶつかって抜けてく音だけ。
空の青、浜の白、海の藍に葉の緑。
限りなく柔らかい単色のみで彩られた視界にストレスなんてほとんどなく、この場所なら一日中、いや夜をも越せると本気で思った。
素晴らしい場所だった。
家以外でこれほど快適さを覚えるのは、図書館や映画館など静寂を強要してくれる場所以外では珍しい(最近はバカな若者やわからずやな年寄りのせいで映画館に、雑音やスマホの光が持ち込まれて快適さが失われつつある)。
ユランガの快適を受けてどこの海も好きになれるかというとそうでもないようで、今日行ったシェリービーチはきれいだったけれど、いまいちユランガほどにはしっくりこなかった。
理由はわからない。
波が強かったからか
景色が気に入らなかったか
カンガルーの糞が気分悪かったか……。
二つの海をひかくして分かったのは、“行ってみなければわからない”ってこと。
清潔だから落ち着くわけでも、静かだから落ち着くってわけでもないようだ(インドネシアの村は清潔ではないが快適だった)。
落ち着く場所を探してみるのも面白いかもしれない。
落ち着く場所を探すのにストレスをかんじて行動しなければならないのはつらいが、ユランガのようにストレスを帳消しにしてくれる場所に出会えるのなら、ストレスを払って見返りを求めてみても面白いかもな、と思った。オーストラリアの海巡りだった。
ユランガには、また絶対来よう。
次は、本と飲み物をもって長時間いたい。
今回みたいに熱くない気候のときにこないとな。
世界のどこかに、もっと落ち着く場所はあるかな。それでは。
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